EMOTIONAL SKETCH 8  もうひとりのマイケル 前編

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先般、1月に夭折したマイケル・ブレッカーの追悼Post前編をアップしたら、普段の数倍のクリックがあり、彼に対する関心の大きさに今更ながら驚かされることになった。後編ではもう少し音楽的に掘り下げてみようと思い、目下残されたCDを聴いたり、映像を見たりしている。そんな時間の中で、ぼくの心に甦って来たのがもうひとりのマイケル、ヴァイブ奏者のマイク・マイニエリであった。マイケル・ブレッカーと親しく話が出来るようになったのも、マイニエリのチャンネルを通してだったということもあるので、ブレッカーとの思い出を整理する意味でも、マイニエリの存在の大きさを再確認し、紹介したいと思うのだ。前編では70年くらいまでのマイニエリ、後編では日本のファンの心を掴み、Steps結成にいたる話を中心にまとめたい。ここに紹介するマイニエリ自身の言葉は、渡辺香津美“Tochika Tour”以降の数年間に渡って、彼との付き合いのなかで交わした会話を集めたものである。

「Steps」(後の「Steps Ahead」)のリーダーとして知られているマイク・マイニエリは、1938年ニューヨークはブロンクスの生まれ。イタリア系移民の家庭に育ったマイクに音楽の楽しさを教えてくれたのは、プロ並のギターの腕前を持っていたお祖父さんであった。12歳のときからヴァイブを学び、2,3年後には自分のバンドを作って演奏活動を開始したそうだ。
「イケガミ、あの街で生き残っていくのがどんなにタフなことか、お前だったら分かるだろ?よく黒人がよい生活しようと思ったら、スポーツ選手かミュージシャンになるしかないって言われるけど、それは底辺にいるイタリア系の移民にとっても同じなんだよ。まあ、オーガナイズド・クライム(組織犯罪、いわゆるマフィアである)に繋がるって手もあるけどね。
とくに私の育ったブロンクスはそんな下層階級の暮らしの見本みたいな街で、幼馴染が何人も私の前で撃たれたり、刺されたりした。ストリート・ファイトの弱い男は、人の上には立てないんだよ。私?ボクシングをやってたよ。
(マイクはあまり人にいわないが、アメリカのアマチュア・ボクシングの登竜門であるゴールデン・グローブで、バンタム級のセミファイナルまで進出した経歴の持ち主である。ぼくがファイティング・ポーズをとると「オー、ノー、ノー。アイム・ゲッティング・オールド、ピース、ピース!」なんて冗談を言っているが、身のこなしからして強そうだ)
ロンリー・ウルフとして人から一目置かれる奴と、仲間をまとめることがうまい奴、陰に隠れて目立たなく暮す奴、この3タイプがブロンクス生き残りの方法なんだ。私は典型的な真ん中のタイプで、幼少の頃から人をまとめるのはうまい方だった。祖父さんはそんな私を見ていて、おまえはコーサ・ノストラでもかなり上にいっただろうな、なんて冗談言ってたくらいさ。だから、バンドのメンバーをまとめるのは得意だったな。力で抑え込むんじゃなくて、民主主義的リーダーとしてね」

そんなマイニエリがジャズ・ファンの間で一躍注目されだしたのは、やはりバディ・リッチに認められて彼のバンドに参加してからだろう。その時期は本人もよく覚えていないようで、59年のような気もするし、60年だったような気もするそうだ。
「うーん、61年にダウンビート誌の“期待する新人”に選ばれてるから、60年までに参加してたことは確かだね。バディは私にとって、父のような存在だった。たまたま音楽を演奏できるストリート・ファイターを、あらゆる面からバックアップしてくれて、自分の息子のように育ててくれたんだよ。ツアーにでると時間が余るだろ。そうするとハング・アウトに出るのもいいけど、本を読む時間を持てと言ってバートランド・ラッセルの『宗教はなぜ必要か』なんていう本や、他にも難い本を次々に渡されるんだ。最初は参ったね」
60年代初頭のバディ・リッチ・バンドのアルバムを曲ごとに細かく見ると、ヴァイブの演奏だけでなく、編曲/マイク・マイニエリというクレジットを見つけられるはずだ。マイクはバディの期待に応え、このグループのなかで大きく成長していったのである。ところが、この新進プレイヤーは飛躍すべき62年になって、突如として演奏活動を中断することになる。ジャズ人名辞典などには「病気によって・・・」と書かれているが、本当は違う理由による休止であった。
「バディのバンドに参加して、私は急に注目されるようになってしまった。ホントはもう少しゆっくりと自分の音楽の中身を充実させたかったんだよ。注目されることが重荷になっちゃったんだね。自分を見失いかけていたんじゃないかな。
だから、オーバーグラウンドな演奏活動をすべてやめて、自分を見つめ直すことにしったってわけだ。ほぼ1年くらい、電話帳の配達やイタリアン・アイスクリーム売りをして生計を立て、家に帰ってからいろいろな音楽を聴いて暮らした。そのうちに自信が戻ってきて、どんな環境に置かれても自分でいられるっていう気持ちになれたので、スタジオ・ミュージシャンとして仕事を再開したんだ」

63年にニューヨークの音楽シーンに戻ったマイニエリは、ジャズという枠に入りきらない音楽を演奏できる数少ないミュージシャンに成長していた。そして60年代の末まで、ジングルのためのスタジオでの演奏をメイン・ワークとしながら、マイペースで新しい音楽を作り出す仲間を探しながら勉強を続けたのだ。
「焦りはなかった。だって食うだけだったら、どうにでもなるって1年間のドロップ・アウトで分かっていたからね。それに、ジャズはコルトレーンという支柱を失って中心がない感じだったので、ある者はコーニーなジャズを演奏し、ある者は独善的なフリー・スタイルに傾倒するといった混乱の時代になっていたんだ。私はそんなシーンに魅力を感じなかったんだよ。ビート・ジェネレーションの作家、ギンズバーグとかバロウズなんかの詩や本を読む方が刺激的だったし、ニューヨークではポエットリー・リーディングを聞かせる店もあったからよく行ったものだ。
何百回も演奏してる曲を、会社員のようにプレイするより1分から3分くらいの短いジングルに自分の感覚を集中して向う方がよほどクリエイティブに感じられたんだよ。最初は食うために半分バカにしながら始めたんだけど、こりゃあ心してかからないとまずいぞ、ってね。
で、スタジオの外を見れば、激動の時代が動いていて、ブラックパワー、ベトナム反戦、ヒッピー・ムーブメント、音楽的にはロックの台頭。新しい芽がブワァーっと出始めたんだ。そこで、スタジオ仲間と大人数のリハーサル・バンドを作って、仕事が終わってから深夜に集まり、練習することになった。ジャズの創造性とロックの新しい感覚を混ぜ合わせてスパークさせようってね。ブレッカー兄弟、ウォーレン(バーンハート・p)、トニー・レヴィン、陸軍から除隊したばかりの短髪のスティーブ・ガッド。スティーブは軍楽隊にいたからマーチを叩かせたらもうピカイチ。みんな自分の演奏を止めてヘーって感じで聴いちゃうくらい凄かったね。徹夜続きで真赤な目になってもやってたなあ。時代の最前線の音を出してるんだっていうことが実感できて、それがみんなを奮い立たせたんだ。このバンドが“ホワイト・エレファント”さ」
この伝説のフュージョン・バンド“ホワイト・エレファント”は、60年代末からのクロスオーバー/フュージョン時代の先駆けとなった集団であったが、当時の音楽シーンで話題になることは少なかった。“ニューヨークにファースト・コールのスタジオ・キャッツが集まったグループがあるらしいよ”という話が日本に伝わってきた程度で、アメリカ国内でもこのバンドを知る人は少ない。メンバーがスタジオの仕事で忙しく、パーマネント・グループとしてスケジュールが切りにくかったということも、このバンドを伝説にとどめた原因だろう。だが後年、彼ら“戦友”たちは事あるごとに集まって、協力しあう関係が現在まで続いているのである。

この記事へのコメント

torigen
2007年02月21日 17:17
おぉ!次回が待ち遠しい…。
泥水飲込
2007年02月21日 17:46
激動の70年代はこうして幕を開けるのか~
トニー・レヴィンやスティーブ・ギャッドもね~あの世代は何でもありなんだな~
早く次回を読みたいです~IKEGAMIさん、宜しく!
IKEGAMI
2007年02月21日 17:53
レス、早!
今日はオペラシティで、山下洋輔=セシル・テイラーDUOですので、これから行って来ます。
板前
2007年02月21日 21:36
1960年代のマイニエリさんはバディー・リッチにいたんですねぇ。知りませんでした。こういう普段聞くことのできないお話を伺えてぞくぞくする思いです。
1970年代の混沌の時代を経て(石頭の私は1970年代いまひとつフュージョンといわれる分野の馴染めませんでした)1980年になって「ステップ・バイ・ステップ」でリズムの形式は音楽表現の一つの手段でしかないことを痛感しました。ガット~ゴメスの強力無比自由奔放なドライブ感を味わって初めて、「音楽の区別なんてどうでもいいじゃん」と思えるようになったものです。
連日納豆
2007年02月21日 21:58
こう言う話を読みたかったんです!ありがとうございます。アーティストの生の声の記録ですから本当に貴重です。何の予備知識なしに単純に音楽だけに感動するのも良いのですが、その演奏者の隠れた経歴や考え方、生き様がわかってくると、音楽もまた新鮮な感動をもって聴こえてくる気がいたします。アーティスト毎にこう言うページを作っていただけると、末永く貴重な資料になると思います。これからも何卒よろしくお願いいたします。 <(_ _)>
hori
2007年02月22日 02:11
あらっ! ギンズバーグの名が出てきたわ。同じジェネレーションって訳で、あの頃はどこか似た空気を吸っていたんだなぁ~とシミジミ・・。
IKEGAMI
2007年02月22日 13:33
板前さん、ようこそ!
保守的なジャズ・ファンたちは、ガッド~ゴメスのリズム・ラインさへ「あんなのはジャズじゃあない」と言うでしょうね。要するに創造性なんてどうでもよくて、何も考えずに4ビートをチンチキ・チンチキやってさへいれば満足なんです。
石頭と自らおっしゃる板前さんのような方が、彼ら流の4ビートに触れて、人称を持った音楽を楽しめるようになる・・・。これが音楽にインスパイアされると言うことだし、音楽の自由な在り様に滲入出来た証しだと思うんです。ブラボー!

連日納豆さん、そういっていただけると書き甲斐もあると言うものです。なるべく早く、後編書きますね。
Horiさん、歳がバレルよ! シミジミしてないで、今年はアケタ辺りに夜遊びに出ることを目標にしましょう。
連日納豆
2007年02月22日 21:03
IkEGAMI様、よろしくお願いいたします。
<(_ _)>
2007年02月23日 12:51
出ましたね、ホワイト・エレファント!

文化には「場」が必要です。「場」を作るひとも必要。時代が「場」を作り、時代が「場」を壊す。でも、一瞬間だけ真理を見ることがあります。そういう「場」に居合わせたひとがうらやましい。例え成功しなくても・・です。

ガッドが軍楽隊(マーチングバンドですね)にいたのは笑えます。あのドラム・ロールは軍楽隊で覚えたのだな。(笑)
IKEGAMI
2007年02月23日 13:44
asianさん、お帰りなさい。
そう、ぼくらは一瞬の真理を見るために何十年も放浪してたんじゃないかなと思います。真理が見えたと思うと、それはすぐに消えていく。ここが音楽の素晴らしくもやっかいな所なんですね。
J・AGE
2007年02月28日 16:39
本論とはあまり関係ないんですけど...。
これだけの方がしばらくドロップ・アウトして色々と本業とは違う部分で努力されて、「食うためだけなら何でも出来る」って確認されているところがとても胸に響いてしまいました。

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