EMOTIONAL SKETCH 9 もうひとりのマイケル 中編
伝説のフュージョン・バンド「ホワイト・エレファント」は、音楽ビジネスの局面ではさして注目されることなく71~2年には消滅してしまうことになる。2枚組のアルバムを残してはいるが、大きなコンサートやフェスティバルに出たというような記録は残っていない。だが、彼らにとってこのグループでの演奏は、70年代の新しい音楽に対するビジョンを個々の内部で確かなものにする、重要な役割を担っていたと言えるだろう。
参考までにホワイト・エレファントに参加していたミュージシャンとスタッフを列記しておこう。
Mike Mainieri(マイク・マイニエリ) :Arranger, Key, Per, Vo, Ulcers
Joe Beck(ジョー・ベック) :Guitar
Warren Bernhardt(ウォーレン・バーンハート) :Key
Michael Brecker(マイケル・ブレッカー) :T-Sax
Randy Brecker(ランディー・ブレッカー) :Trumpet
Sam Brown(サム・ブラウン) :Guitar
Ronny Cuber(ロニー.キューバー) :Baritone Sax
Jon Faddis(ジョン・ファデス) :Trumpet
Steve Gadd(スティーブ・ガッド) :Drums
Nick Holmes(ニック・ホルムズ) :Vo,Guitar
Tony Levin(トニー・レビィン) :Bass
Sue Manchester(スー・マンテェスター) :Vo
Bob Mann(ボブ・マン) :Guitar
Hugh McCraken(ヒュー・マクラッケン):Electric Guitar, Acoustic, Slide & Harmonica
Donald MacDonald(ドナルド・マクドナルド) :Drums
Paul Metzke :Guitar
Nat Pavone(ナット・パヴォーン) :Trumpet
Jon Pierson(ジョン・ピアソン) :Bass Trombone,Vo
Barry Rodgers(バリー・ロジャース) :Tenor Trumbone
Lew Soloff(ルー・ソロフ) :Trumpet
David Spinozza(デヴィッド・スピノザ) :Electric & Acoustic Guitar
Ann E. Sutton(アン・E・サットン) :Vo
Frank Vicari(フランク・ヴィカーリ) :T-Sax
George Young(ジョージ・ヤング) :A-Sax
Christine Martin
Jay Messina
Jack Douglas
「ホワイト・エレファント」に参加したミュージシャンの殆どが、NYを代表するような腕利きスタジオ・ミュージシャン。70年代半ばから80年代にかけては、このスタジオ・ミュージシャンたちが音楽ファンから注目された時代である。マイケル・ブレッカーなどは1,000枚近くのレコーディングに参加しているのだが、かれらの凄さはどのようなレコーディングであろうと手抜きをせずに、本気で演奏を楽しんだところにある。そして、アルバム・クレジットの大小に関わりなく、“自分の音”を出していたことは、ライブ・シーンで注目されなくなったロートルが多勢を占める日本のスタジオ・ミュージシャンとの絶対的な違いであった。彼らのサウンドは若い日本のミュージシャンに大きな影響を与え、岡沢章や村上「ポンタ」秀一らの優秀なスタジオ・キャッツを生み出したのである。
「ホワイト・エレファント」の活動が滞り出すや、マイケルとランディのブレッカー兄弟は70年にビリー・コブハムの「ドリームス」に参加した後、すぐに「ブレッカー・ブラザース・バンド」を結成。ジャズ、ロック、R&Bのエッセンスを混ぜ合わせてさらに凝縮した演奏を開始した。マイケル・ブレッカーはこの時期の音楽活動について、こう語っていた。
「あのバンドはマイク・マイニエリのバンドだ、というのがみんなの認識だったね。スタジオの仕事が忙しくて、ちょっとフラストレートな時にマイニエリがやろうと言ってくれたんで、大喜びで集合したんだよ。でも、やっぱりみんな自分のバンドを持ちたいものなんだ。どこでも、誰とでも、楽しく演奏できればいいというハッピー・ゴーイングな奴はウィル(リー)くらいじゃないかな(笑)。幸い、ぼくら兄弟のバンドは注目されるようになってコンサートとスタジオで音楽漬けの日々となってしまったんだ。しまいにはライブ・ハウス(「セブンス・アヴェニュー・サウス」)までやりだしちゃったんだから、クレイジーだよね。スティーブはスタジオに住んでいると言われるほど忙しくなったし、トニー(レヴィン)はロック系の仕事が増えた。そういう具合で、バンドは自然消滅みたいになったんだ」
「ホワイト・エレファント」は自然消滅してしまったが、マイク・マイニエリはスタジオの仕事に加え、ローラ・ニーロやカーリー・サイモンらポップス・ヴォーカリストとのコラボレーション、さらにはプロデュースと相変わらず忙しい日々が続いていた。この時期、彼はアーティスト・コロニーとして知られるウッドストック(あのフェスティバルが開かれたウッドストックである)に家族との家を持ち、仕事があるとマンハッタンに出てきていたのだが、「ホワイト・エレファント」の仲間の多くが同じ生活スタイルで暮らしていた。マイクの家からメインストリートを北上すると、ウォーレンの家、トニーの家があり、すぐ近くにカーラ・ブレイ/マイク・マントラーやジャック・ディジョネットが住み、彼らが篭るスタジオがある。(ここはスティーリー・ダンもよく使っていた)バンドこそ消滅したが彼らはしょっちゅう互いの家を行き来して音楽的なコミュニケーションを続けていたのである。
マイク・マイニエリはNYのジャズ/フュージョン系スタジオ・キャッツのボス的な存在として、ミュージシャンたちから一目置かれていたが、音楽ファンの間ではポピュラーな名前ではなかった。そんなマイクが多くの人から注目されるようになったのは、深町純&NYオールスターズのリーダーとして1978年にに来日し、80年に渡辺香津美の大ヒット作『トチカ』をプロデュースしその日本ツアーにやってきてからではなかろうか。このマイクと日本との関わりが「STEPS/STEPS AHEAD」の結成に?がっていったのである。
深町純のインタビューによると、彼は「ON THE MOVE」というアルバムを78年の4月にNYで録音したのだが、メンバー他はかねてから親交のあったランディ・ブレッカーに依頼したそうだ。(参照・J-WAVEの葉加瀬太郎の番組WEB・http://www.j-wave.co.jp/original/worldaircurrent/lounge/back/040508/)当時、彼らの仕事のプロダクション・コーディネーションを一手に引き受けていたのは、マイニエリのマネジャーをしていたクリスティーン・マーティンというフランス系の女性であった。おそらくランディはミュージシャンやスタジオのブッキングをクリスティーンに頼んだのだろう。したがってスタジオはマイク=クリスティーンのお気に入りのパワー・ステーション。(ミッドタウン8thと9thの間にあった当時は最新のスタジオで、コン・エジソン電気会社の変電所跡に建てられたので、この名前となった。スタジオに行くとここのエンジニアと付き合っていたまだ無名に近かったマドンナが、ロビーのカウチで静かに本を読んでいたりしたものだ)スタジオでのミュージシャンたちの様子は前掲のWEBを読んでいただくとして、STEPS結成までの流れを追うことにしよう。
「ON THE MOVE」が日本のアルファ・レコードから発売になる頃、深町のもとにランディから連絡が入った。レコーディング・メンバーがツアーをしたいといっているのだが、日本で一緒にやることはできないかというオファーであった。深町はアルファの担当重役である川添象郎に相談すると、川添はこの話を鯉沼利成の「あいミュージック」に持ちかけた。
クリスティーン・マーティンは「ランディがオーガナイザーとしてマイクと私を日本側に教えたんだと思う。プロモーターから私のところにツアーの話がきたから。実は、夏のモントルー・ジャズ祭に同じようなメンバーで出演することになってたの。グループの名前は“ALISTA ALL STARS”だけどね。そう、ホワイト・エレファントの時代からの音楽仲間!」
かくして、マイク・マイニエリと日本のミュージシャン、音楽関係者とのコミュニケーションがスタートした。STEPS結成の2年前のことである。
この記事へのコメント
わくわくしながら拝見しました。ああ、当時にタイムスリップしてみたい
そちらのWEBも着々とコンテンツが増えてますね。ぼくも頑張って書かなくちゃ。
ほんとはSTEPSのところまで書こうと思ってたけど、長くなるので「中」にしちゃいました。
なるべく早く後編アップしますので待っててください。
最近、自宅押入から古いカセットを数本発掘しました。十数年ぶりに日の目を見た70年代後半~80年代前半にかけてNHKで放送されたJAZZ祭などのライブ音源が数本あり中には、自分では存在すら忘れれていた、84年のギル・エバンス・オーケストラ with ジャコのライブ(よみうりランド・イーストのライブアンダーザスカイ)のカセットなんかが出て来て、ココしばらくはそんなのばっかり聴いています。
今回の記事では私の知識不足でポストに直接関係のあることが書けなくて恥ずかしいのですが、愛の証の(^O^)足跡コメントを残していきます。何年かかられても辛抱強く待ちますから、いつの日かP-FUNK、ゴスペル、そしてMiles(これはず~っとPCに保存しています)、読ませて下さい。
Ms.Naughty by nature...chi-Bより。
Steely Danも電話一本でスタジオ・ミュージシャンをスタジオに呼び出したそうです。
マイニエリの場合はもっと暖かいですね。
asian師匠ももっとワクワクさせたいんだけど、勤勉じゃあないからな、ぼく。
頑張るという言葉は嫌いだけど、こういうコメントいただくと「やらなきゃ」と思ったリもするんです。うーん。
これらについてのIKEGAMIさんの文章が本格的に集まったら、これは歴史的な資料価値のある貴重なものになると思います。IKEGAMI様、今はブログで読ませていただけるのがとてもありがたいのですが、いずれ文献化もお考えになられては...。
うーん、文献化ですか。ぼく、あまり文章を残すって意識や欲望、持ってないんですよ。このブログの内容にしても、文章に責任は持つけど、できれば友達とコーヒーを飲みながら「こんなことあったよなあ!」と笑って話すような感覚で書きたいと思ってます。ぼくが好んで聴いてきた音楽、気の合ったミュージシャンって音楽や自分を大上段に振りかざす人って少ない。みんなプライドは気高くキープしてますけどね。
だから、連日納豆さんや、chi-Bちゃん、asianさんが面白がって下さればそれでいいんです。昔、沢木耕太郎が『一瞬の夏』のなかで「編集者によかったと言ってもらいたい、それだけのためによい原稿を書こうと思っていた」というようなことを書いていましたが、その感覚と似てるかな。
マイペースで、好き勝手なことを真剣に書くつもりでいますので、どうか楽しくお付き合いください。
また、事後報告となってしまいますが、この「中編」のリンクをまた貼らせていただきました。ありがとうございました。