EMOTIONAL SKETCH 19 もうひとりのマイケル 後編 <Ⅰ>

現在では伝説になった感のあるこのグループを実質的に取りまとめたのは、今は亡き生田朗である。ブレッカー兄弟がオーナーであった「セブンス・アヴェニュー・サウス」で彼らの演奏を聴いた生田がまず思い立ったのは、渡辺香津美の「TO・CHI・KA」をプロデュースしてもらうことであった。「日本ではヴァイブ奏者としてしか知られてないけど、あのおっさん、実はニューヨークのスタジオ・ミュージシャンたちの親分みたいな存在なのね。だから、彼のルートを通せば誰でも簡単にブッキングできるし、結構無理もきいてもらえる。マイク自身の演奏も繊細でいいし、なにか面白いことになりそうな気がするんだ」と言っていた彼の感覚は時代の流れを確実に捕えていた。(生田朗についてはまたの機会に書きたい)
だが、生田がマイク・マイニエリとプロジェクトを起こす前に、すでに単身ニューヨークに渡り、ブレッカー兄弟をはじめとするミュージシャンたちを起用していた男がいた。ピアニストの深町純である。深町は1976年8月にニューヨークでブレッカー兄弟、アンソニー・ジャクソンらと「スパイラル・ステップス」というアルバムを録音しており(録音は東京とNYの2都市で行われた)、この録音でNYコネクションを作り上げた深町は、翌年ブレッカー兄弟と池袋・西武劇場でのイベントで共演。「ディラックの海」(77年)、「オン・ザ・ムーブ」(78年)、「深町純&ニューヨーク・オールスターズ」の日本ツアー(78年9月)につながって行くのだった。(このあたりはLINKを貼らせていただいている「70’S CROSSOVER MUSIC」に詳しいので、興味のある人はhttp://crossover.yh-aa.com/を)こうした70年代日本のクロスオーバー&フュージョン・ムーブメントが一気に加速した背景には、キティ・レコードやアルファ・レコードというメジャーではないレコード会社の音楽制作姿勢があったことも忘れてはなるまい。深町が所属契約していたアルファの社長は村井邦彦、担当のエクゼクティブ・プロデューサーは川添象郎であった。当時、村井はこんなことを言っていたものだ。
「後発のレコード会社はビクターや東芝みたいに大きな販売組織を持ってないし、プロモーション費用も限りがある。じゃあ、どうすりゃあいいかって言うと、時代の先端でカッコよくて魅力的な音楽を作るっていう原点に戻ることしかないんだよ。そうすれば、若い音楽ファンのこころは必ずとらえられる! ボクは音楽ファンの耳を信じてるし、やっとそういう時代が来たと思ってる」
有言実行。アルファは深町のほかにも吉田美奈子、カシオペアを擁し、クリエイティブなポップスを送り出していた。そして、この動きはやがてYMOの結成によって<日本初、世界へ>という一大ムーブメントとして、大きく花開くのである。
だがメジャーだって手をこまねいていたわけではない。CBSソニーでは伊藤八十八が「スクエア」、「ザ・プレイヤーズ」などのフュージョン作品を制作していたし、老舗日本コロムビアは「ベターデイズ」というレーベルを立ち上げて渡辺香津美や向井滋春らを強力にプッシュし始めていた。特筆すべきは後者で、「ベターデイズ」からは「KYLYN」や坂本龍一の「千のナイフ」という、その後の日本のクリエイティブ・ポップスを主導する音楽が生まれているのである。そして、そのいずれにも前述した生田朗が関わっていることに注目したい。
当時、生田はピットイン・ミュージックに籍を置いていたが、まるでフリーランサーのような活動をしていた。これは、渡辺香津美の所属が同じピットイン・ミュージックで、生田が彼の海外ネットワークを作る役割を担当していたことの副産物でもあった。ピットインという会社が、スタッフの仕事に対し細かいことを言わないという特色を持っていたことも有利に作用したと言えよう。この会社の代表で、60年代半ばに「新宿ピットイン」をオープンし、海外のミュージシャンから「日本の“ビレッジ・ヴァンガード”と呼ばれるジャズ・ライブ・ハウスに育て上げた佐藤良武は、当時を振り返りながらこう語るのだ。
「勝手なことしてても、それが所属ミュージシャンに何かをもたらせばいいじゃないかっていうのがピットインの考え方なんだ。それがいい音楽につながれば結果的に“ピットイン”というジャズ・クラブ、ライブ・ハウスにお客さんを呼ぶことになるからね。大体、ピットインってサービス業の本筋から考えたら滅茶苦茶な経営形態なんだよ。どうしようもない客を叩き出したりしちゃうんだから(笑)。演奏の邪魔になるような客なんか来てもらわなくたっていい、ってね。とにかく、ミュージシャンが気持ちよく楽しく演奏してもらえるようにすることだけを考えてやってきたら、40年ちかく年月が経っちゃったんだなあ。
生田はホントにいい仕事をしてくれたと思うよ。彼がいなければ香津美のTOCHIKAは生まれなかったし、STEPSだって違うグループになってたかもしれないだろ。まるでミュージシャンみたいな男だったから、事務の側からすると困ることもたくさんあったけど、まあうちは普通の会社とは違うからね。ははは。ジャズの歴史に残るかもしれないプロジェクトをやったんだからしょうがないよ」
生田朗が、マイク・マイニエリに渡辺香津美の新作をプロデュースしてもらうために具体的に動き出したのは「深町純&ニューヨーク・オールスターズ」の日本公演の頃からだったような気がする。この頃、個人的に生田とよく聴いたのはジェームス・ブラッド・ウルマーやアルバート・アイラー、ジャマイカの変なダブのレゲエ、そしてラサーン・ローランド・カークなどであった。一緒にゲラゲラ笑いながら聴いていると、彼に「IKEGAMIさん、こんなの面白い、凄いって言ってるからメジャーな仕事が来ないんだよ。ぼくらは現場だから好き勝手やってりゃあいいんだけど、そっちは一応メディアの仕事なんだから、もっと人気のあるやつを“最高!”とか言ってりゃあいいのに」などと言われたものだ。余計なお世話である。ははは。
その生田が、マイクに香津美をプロデュースさせて、同じ渡辺姓の「カリフォルニア・シャワー」に迫るヒット作を作ろうとしているのが、ぼくにはちょっと不思議に思えたものだ。
「香津美さんって、なにやらせてもできちゃうし、楽しんじゃうし、聴いてる人に対して自然にサービスしちゃうでしょ。でも、なにやっても自分の音を出してる。ニューヨークの連中から本気で認められてる日本人ってそうはいない。ギターを弾くことにかけては世界で三本の指に入るってブレッカーだって言ってるんだから。マイニエリおやじだって“やりたい”って言ってたし。だから、香津美さんはこれまで誰もやってなかったクリエイティブなポップスができるんじゃあないかと思うんですよ。ま、そういうのを作ってみてもいいかな、とね」
この男は、思いつくといきなり突っ走る。
「あ、あれ決まった。ニューヨークで録ってくる」
と言って、香津美とともにNYに出かけて行ったのは80年のまだ寒い時期であった。
黄色いジャケットの「TO・CHI・KA」は生田の考えるクリエイティブ・ポップスとして、大ヒットとなった。そのヒットを背景にして企画されたのが「TO・CHI・KAツアー」だ。マイニエリはベース奏者にまだ20歳だったマーカス・ミラーを選び、ドラマーはマーカスが生まれ育ったクイーンズ区ジャマイカの幼馴染であるオマー・ハキム。NYでも聴けない組み合わせによる最新のNYサウンドが日本のコンサート・ホールで弾け、若いフュージョン・ファンたちを沸き立たせたのだった。ぼくらは演奏会場だけでなく、オフの時間も心行くまで楽しんだ。道後温泉に連れて行かれたマーカスは、香津美のでたらめなアドヴァイスによって立派な一物を湯船のヘリに乗せて拝まされたし、東京に戻ってからは生まれて初めての軟式ボールの草野球を体験。
「ボクはミュージシャンになるか、メジャーリーガーになるか迷ったくらいだから、サードかピッチャーしかやらないよ!」と言いながら、三振にトンネルというていたらく。「ま、ベースボールじゃなく、ベースを選んだのは正しかったってことだ」とすました顔で弁明するのだ。
こんな楽しい時間を過ごしながら、次のプロジェクトが話し合われた。マイク・マイニエリのアイデアは、マイケル・ブレッカー、スティーブ・ガッドと一緒にコンボ・スタイルのジャズ・バンドを作りたいというものであった。だが、アメリカのレコード会社が乗ってこない。香津美のレコード会社に取り計らってくれないかというのだ。
(もうお分かりのことだろう。「STEPS」結成のきっかけは「TO・CHI・KAツアー」なのだ。長くなったので、この後編をⅠ、Ⅱに分け、まずⅠをアップすることにしよう)
この記事へのコメント
ありがたいなぁ。
もういちどSTEPS聴き直してみよっと。
やっぱりハシゴでラーメン2杯食べちゃう人は違うなあ。このところそちらのブログも絶好調ですね。
このマイニエリのPOSTはもう少し手短にと思ってたんですが、いろいろ思い出してるうちに長くなっちゃった。ま、読んでいただけてありがたいことです。
暇だからしっかりネット遊泳もしてますよぉ~。と…マイニエリ&渡辺さん辺りに来てるのですね?しかし、よく他の記事とダヴりませんよねぇ、流石その道の…わはは。かかえてるpostも半端じゃないですもんね?兄貴ぃ?(汗)
無意識宇宙から帰還したチューブ・ロボットのくせして深夜・早朝の遊泳にカキコ。傷が開いたって知らんからね。11時間の手術を終えて、4日後にはキーボードたたいてる人なんていないよ。
しかし、嬉しいですねえ! ご訪問ありがとう。
その深町さんは、1976年7~9月頃にかけてブレッカー兄弟との競演作「スパイラル・ステップス」を製作されていますが、その数ヶ月前、同じ年の5月頃に、「Rainbow featuring Will Boulware」というアルバム(Michael Breckerと、 Richard Tee、Christpher Parkerを除くStuff のメンバーが参加、日本人ミュージシャンは参加していない)が、伊東潔氏・伊東八十八氏によるプロデュースで製作されていたと言う事を、恥ずかしながらつい最近知りました。深町氏のアルバム製作の約2ヶ月ほど前の事ですが、この2つのアルバムには何か関係があるのでしょうか?(続く↓)
もしご存知でしたら、差し支えない範囲で結構ですのでいずれ教えてくださいまし。長文、大変失礼いたしました...。